痩せたいけど✖痩せられない

痩せたいと念じつつ、幾年月。既にどうでも良くなってる昨今ね・笑

広島原爆の日

六十七回目の原爆の日を迎えた。
心から合掌。

『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』と刻まれている。

主語が抜けて漠然とした文言だ。
主語は誰なのか。
戦争をした日本人なのか、
原爆を投下したアメリカなのか。

と、この主語の解釈は、六十七年という年月の中で、変遷しているよねぇ。

そもそも、この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については建立以前から
色々と議論があったみたいだね。

以下、突っ込みつつ簡単に説明。
1952年8月2日当時は、原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と
文明の破壊を意味している」と広島市長が答弁している。
しかし、
「碑文は原爆投下の責任を明確にしていない」
「原爆を投下したのは米国であるから、過ちは繰返させませんからとすべきだ」
との投書が新聞に掲載されたが、これにはすぐに複数の反論の投書があり、
「広く人類全体の誓い」であるとの意見が寄せられた。

(フムフム・・なるほど・・結構、民主主義だね)

さらに、当時の市長も「誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどい事は
人間の世界にふたたびあってはならない」ということで、
主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている。

(なるほど、無難)

しかし、これに噛み付いているのが、当時のインド人法学者のラダ・ビノード・パール
という極東国際軍事裁判の判事だわな。
講演のため広島を訪問し、慰霊碑を訪れる前の講演(世界連邦アジア会議)で
「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、
何のために投ぜられなければならなかったか。」と、
原爆投下と、投下を正当化する主張を強く批判。
さらに、慰霊碑を訪れた際、献花と黙祷の後に、通訳を介して碑文の内容を聞くと
「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、
まだ清められていない」と、日本人が日本人に謝罪していると解釈し非難した。

(なんつーか、ややこしいが、この人は日本人の立場に立ってくれているのかね)

後に、碑文を考案考した広島大学の雑賀教授はパールに対して、
広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。
これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、
霊前でものをいう資格はない。」との抗議文を送ったとの事。

(ほぉー、何かもう凄いっスね)

このことをきっかけとして、主語は原爆死没者か日本人かアメリカ人・・
もしくは世界人類か、「誰」が過ちを繰り返さないといっているのか。
「繰返しませぬから」か「繰り返させませぬ」かといった碑文論争がまたも行われる。

1970年2月11日には「碑文は犠牲者の霊を冒涜している」と主張する「原爆慰霊碑を正す会」
なる市民グループによって碑文の抹消・改正を要求する運動が盛り上がった。

(そういえば、何か記憶にあるなぁ・・児玉ナントカがいたよね)

また、この運動を軍国主義的・民族主義的主張であると反発する市民グループが対抗して
「碑文を守る会」を結成し、激しい論戦が繰り広げられる。

(お〜、そういうこともあった様な・・)

このモロモロの運動に対して、この当時の市長山田節男は
「再びヒロシマを繰返すなという悲願は人類のものである。
主語は『世界人類』であり、碑文は人類全体に対する警告・戒めである」
という見解を示す。

(うーん、落ち着くところに落ち着き出す?)

この見解が出されて以降、碑文の意図するところは、
「日本」「アメリカ」といった特定の国の枠を超えて、全ての人間が再び核戦争を
しないことを誓うためのものである、とする解釈が公式見解となった。

(なるほど・・なるほど)

しかーしっ、またもや1983年。
慰霊碑に主語としてトルーマンと記された札が貼り付けられる事件が発生した。
これを受けて広島市は、浜井市長の答弁を基にした説明版(日本語と英語で表記)を
慰霊碑西側の池の中に設置した。

(やはり理解が進んでいないのか・・)

説明板では
「碑文はすべての人びとが、原爆犠牲者の冥福を祈り、戦争という過ちを
再び繰り返さないことを誓う言葉である。」
とあり、犠牲者への冥福と不戦の誓いの言葉であると解説されている。

以上の経緯を経て、「碑文の主語は人類」が公式見解となり、
大きな論争は無くなったと見られたが、現在も碑文は「日本人の過ち」と
解釈される、もしくは「世界市民」という思想に批判的などの理由で、
広島市側の見解が受け入れられていない事例も存在している。

(色んな考えや思いがあるからねぇ・・統一見解は難しいのかも)

碑文の解釈に大きな論争が起きること自体、碑文の文章に問題があるという
意見や、現在もアメリカ人の過半数は広島原爆投下を正しいと考えているのだから
碑文の主語にアメリカ人を含めるのは妥当でないという意見も存在する。

(なるほど・・解決しているわけじゃないのね。現在進行形?)

ともかく、色んなイデオロギーの垣根を取り払い、
ここは無垢の心持ちで祈りたい。

戦争という名の下に、あまりにも理不尽で無慈悲で無残にも多くの命が
一瞬で失われた事への鎮魂と冥福。
そして、自然ではない人為的な大惨事を二度と繰り返さぬように。

全てをひっくるめて、しばし合掌