痩せたいけど✖痩せられない

痩せたいと念じつつ、幾年月。既にどうでも良くなってる昨今ね・笑

台風、原発、オリンピック・・書きなぐる。

先日の台風。
千葉県は(もしかしてアタシの住んでいるところだけ?)肩透かしの様に、
雨も風も大したことなく過ぎ去った。
ただ、大型の台風は各地に甚大な被害を起こしつつ、列島を縦断する形で
駆け抜けて、各地の被災地はとてつもなく片づけが大変なのがニュースから
も伝わって来た。

台風一過で、翌日から猛烈な晴天。
日中の気温は高いが、湿度が三十パーセント前後と夏の蒸し暑さからの
解放されてようやく人間らしい生活が出来ている感じ。
日の落ちるのも早くなり、夕方には肌寒さを感じるくらいだ。
今年の夏が異常気象というのではなく、これからの日本の夏は、多分今年のような
天候が常態化するのだろうと予感させられる。。
これも人間自ら撒いた温暖化という名の地獄の業火。
それに焼かれ、洪水、竜巻、地震に逃げ惑うしかない・・
という感じの終末論的考えが浮かんでしまう。

さらに、東日本大震災からの福島の原発事故から、『脱原発』と声高に言う方々。
無論、言うのは大いに良いですよ。
なにせ言うのは簡単です。
ただ、結局は代替のモノが無い。
高度経済成長期同様に化石燃料の依存度が高まり、日本自体も温暖化を
促進する事になってしまっているし・・。
反面、原発は事故れば取り返しのない事になっているし・・。
一電力会社に、原発事故は手の負える代物じゃないという事が露呈している。
株主だ、営業だ、収益だ・・とそういう目先のそろばん勘定で事故処理を
行っているゆえにすべてが後手後手。
地下水の汚染を防ぐ防壁設置も早い段階で研究者から言われていたのに、
百億かかると躊躇し、結果、地下水汚染を引き起こしている。
東電は放射能汚染水なんてーのは海に流せば良いと考えているのが見え見え。

本当は東京五輪なんかに大金使っている場合かと思う。
そもそも福島原発は東京都やら首都圏の電力賄っていたんだろうに。
東京も放射能汚染水漏れの防止策の一端を担うべきなのに、
我関せずみたいに・・五輪五輪と相変わらずの浮かれっぷり。

福島原発の被災者達が『まるで別世界のような感じがする』と
しらけた眼差しを向けている人々にお構いに無しの浮かれっぷりで、
誘致に尽力した選手の顔なんて、もう見飽きたし、お涙頂戴話もとにかく辟易だ。
そもそも『お、も、て、な、し』といった後の合掌ッてなんなの?
アレに対して誰も疑問や疑念を持たないのが不思議。
日本人として、おもてなしした後に合掌とはどんな意味があるんだと、
ずっとずっと疑問中。
そもそも、欧米人たちが、やたらと日本人に挨拶代わりに合掌するのもイヤなんですけど、
あんな場で合掌しちゃって、どこか別の国の風習と間違われそうじゃないの?

ちなみに、調べてみると(以下転載↓)
 
 右手は仏の象徴で、清らかなものや知恵を表す。左手は衆生、つまり自分自身であり、不浄さを持ってはいるが行動力の象徴である。両手を合わせることにより、仏と一体になることや仏への帰依を示すとされる。
他人に向かって合掌をすることは、その者への深い尊敬の念を表す。

アジア以外(特に欧米)ではしばしば挨拶のつもりで極東の東洋人(日本人・中国人・韓国人など)に向かって合掌しお辞儀をするものがいるが、僧以外の一般人が日常の挨拶として合掌をするのは東南アジアや南アジアの一部の国や地域(インドのナマステやタイのワイなど)に限られる。
このステレオタイプアメリカをはじめとするメディア(娯楽番組・映画・アニメなど)にしばしば登場する。

日本では仏教に関する儀式の際に行われるだけでなく、お詫びをするときやお願いをするときに、相手を持ち上げるための仕草として使う例もある。
また、食前食後の挨拶の際に合掌する例もあるが、これは仏教由来の習慣である。
仏教徒は、あらゆる挨拶において合掌をする。神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道の礼拝では本来、合掌はしない)。

また「合掌」という言葉は、日本語での文章語として、(多くの場合亡くなって間もない)故人に向けての哀悼の意を示すべく、文末に添えられることがある。

(以上、転載終わる)