痩せたいけど✖痩せられない

痩せたいと念じつつ、幾年月。既にどうでも良くなってる昨今ね・笑

退院後の診察と母のこと。

腹膜炎疑いで八日ほど入院し、絶食と抗生剤等の点滴で何とか手術は免れ退院。
退院後、経過観察という事で先日診察。

血液検査もすべて正常に落ち着き、とりあえず今回の件に関しては治療終了。
ただ、外科的治療ではなかったので、何かの拍子にぶり返しというのも無いわけでは無いと・・・
怖いなぁ。
ともかく何が原因で、、というのがわからないままなので、予防も無いつ〜ことで、また悪くなったら来てネ・・と言う感じで、終わった。


ともかく、思い返せば三月半ばに・・母の定期検診ですい臓がんが疑われ、
精密検査ですい臓がんと診断されたのが四月。
手術しないでそのまま行けば余命二年。
初期だから手術がしたいと、八十三なのに大手術を決行したのが五月初旬。

悲しいかな、手術すればまたいつも通りの生活が出来て、長生きできると
母は完全に思い込んでいた。
高齢ゆえに、手術をしてもらえるとありがたがり、医師からの術後の説明をしっかり受け止めてはいなかった。
医師からの重い説明は手術出来るとウキウキして軽く聞き流していたのを同席していたアタシは今でもはっきりと記憶している。
術後、手術は無事に成功して、徐々に回復していった。
しかし、退院後・・・。
また、一人気ままに過ごしていくという独居に黄色信号がともりだす。
単純に手術出来るだけで嬉しいと思っていた母の想像とは全く違っていた術後の世界に母自身が戸惑いだしていた六月。
医師からは、術前の母の生活が十としたら、術後は七割程度でしてか暮らせなくなることの説明の意味が、ようやく分かりだしていた様子。

更に、初期だと思っていたすい臓がんも、手術でとったあちこちの組織から・・
既にステージⅢであったことが判明。

退院後の初めは、介護認定とか、自宅で訪問介護とか、、
他人が家に入って来るのを極端に嫌がり、自分でやれると頑固に言っていたが、
いよいよ、そんなことを言っている場合ではなくなる六月半ば。
それでも介護認定の判定日には、元気さをアピールしてしまい、要支援一という結果に。
その数日後には動けなくなるほど、体に痛みが出てきて、もう一度判定が受けたいと言い出すが、あとの祭り。

七月中旬、背中の強い痛みから再入院。
横綱千代の富士、すい臓がんで死去(術後一年で亡くなる)
八月上旬、医師からステージⅣ、末期がんと宣告、余命一か月、、
長くても三か月はもたないとの説明にアタシ達は驚く。
病院の患者支援センターの方と共に緩和ケアの有る病院を探し出す。
八月中旬、緩和ケアの有る病院へ転院。
八月末、母、すい臓がんで死去(術後三か月で亡くなる)
すい臓がんと分かってから五か月の母の軌跡。
春先には八十三の老婆にしては物凄く元気だった。
その母がまるで坂道を転げ落ちるように・・八月にはこの世を去った。




手術をした五月から、見舞い、身の回りの世話、末期の癌の転院やら見舞、そして、、臨終、葬儀と慌ただしく過ぎ。
九月に入りほっと息つく間もなく、母の件で何度も実家に通い、モロモロの手続きの解約、名義変更やら・・
弟と打ち合わせ、弟自身も何度役所に通ったか、、、。
実家の一部を借家として貸していたので、そちらの手続きで不動産屋と打ち合わせたり、
何か気ぜわしかった日々、そのうちに・・腹が・・・痛い・・で入院。
で、怒涛の九月が終わる。

気づけば、十月。
父も母も、、送り出した。

友人知人は、脳梗塞認知症で親の介護に奔走していており、いまだ大変な思いで過ごしているが、、どの人も追い越して・・母は亡くなった。

しかし、最後の半月、、その亡くなり方は、壮絶の一言。
すい臓がんという病気の末期がそうなのか、それとも母の見えない何かが影響しているのか・・
母の物言いがそうさせるのか・・・今となっては何もわからないが、
『なりたくない』と言っていたことすべてが母に何一つ漏らすことなく
母に降り注いで、亡くなった。

それだけは・・・妹と今も不思議に思う事だ。


母の四十九日の法要も近づいてきた。
今年は本当に、、一年が早いとしか言いようがない。


ともかく、アタシも母でありおばあちゃでもあるので、
健康には少し気を遣って、、ステロイド服用の身でどのくらい生きられるのかわからないけど、自然体で生きていきたいなぁ。